これからの人生をどう生きていくべきか、20才を前に悶々としていた時、たどりついた思いは「やはり直接、将来、人の為に尽くせる仕事がしてみたい」との思いで政治家を志すことの決意でした。「やはり」というのは当時、高校を卒業して勤めていた出版社の給料が破格の高給で政治家の秘書となれば年収にして大幅ダウンを覚悟しなければなりませんでした。それは病弱で苦労の多かった母を楽にしてやりたい、安心させてやりたい、との思いを強く持っていての逡巡があったからです。しかし意を決し、国会議員秘書を9年間勤めた後、川越市議会議員4期16年、県議会議員2期6年、参議院議員2期12年の政治人生を凡そ50年間歩んできました。
この間、多くの先輩の薫陶を受けてきましたが、中でも永く生涯関わり頂いた富士社会教育センターの理事長であった大松明則さん、参議院議員であった田渕哲也さん、朝霞市議会議員だった中田一郎さんからの影響は大きいものがありました。御三方の個性は全く異なっていましたが、芯を持った理想主義者であったこと、筋道を立てて生き抜かれたこと、義理と人情にあつかったこと、私利私欲から遠い人であったことが共通していました。
三人の謦咳に接する中で当然のこととして、私自身もそう在りたい、在ろうと努めてきました。しかし、現実社会の中では、これらの価値観を持ち、行動もそれを裏付けている人は、実は稀であることがこの歳となって漸く気づいてきました。政界に身を置いて一番辛いことは身近かな人間の裏切りですが、これは何度も経験し乗り越えてきたものの後味の悪い心の苦痛から未だ解放されることはありません。
これからも政界に在る限り、裏切りを浴びせられることは絶えることはないでしょうが、それでも筋道を立て、義理と人情にあつく、他者を恨むことも憎むことも、妬むこともなく生きようという思いは諦念として私は持ち続けようと思っています。
川越のため、情熱、行動力、先見性を持ったお二人との出会い。
今からもう20年程の前のこととなりましょうか、私は川越市長候補となる人を模索し、二人の知識人と高名なる方に出馬要請をしたことがあります。種々の事情によりお断りされましたが、このお二人を除き、現実政治の場に在った次のお二人は、先見性、行動力、情熱が抜きん出ていたので、何としても市長になって欲しかった人物です。その方は鬼籍に入られていますが、霞ヶ関地区から市議会議員として活躍しておられたA氏であり、もう一人は市議、県議の経験を持つB氏です。
A氏は、菓子屋横丁の整備、電線の地中化を強く主張し続け、当時、市長の決断を強く促し、実現に大きな影響を与えました。議会随一といわれた論客の1人が執行者ではなく、一議員の立場であっても、大きく行政を動かせるのだということを証した人物ということができます。
実際の市長選挙に立候補したB氏は、仕事一筋の人で、私が「ゴルフでも何でも良いので、暮らしに遊びを組み込んだらいかがですか。」と進言したら、「いや~、市内の地図を見て、ここに橋をかけたらどうなるか。ここを交差点改良したらどうなるのか、といった事を考えることが好きで、それが自分の遊びになっていて・・・・」といわれたことがありました。
一木の支うるところに非ず、個性ある両氏を市長にする力を私は持つことはできませんでしたが、情熱、行動力、先見性を持つお二人は人物の好き嫌いを除き誰もが認める白眉の存在でした。
半世紀にわたる政治人生を通した、将来を見据えた取り組み。
市議一期目の時、オリンピック誘致を既に議会で提唱していたという事実はさておき、私は、市議会議員、県議会議員時代に、いくつかの制度を揺り動かし、あるいは制度づくりに貢献してきたという自負がありますし、形を今に残すものもあります。市議会ではパートタイマーの退職金制度を提唱し、実現させました。県議としては新河岸川の土堤に桜並木をつくりました。国会では人工乳房の保険適用を訴え、これも実現に繋げました。又、内閣の一員として外務副大臣の時、まだ誰も注目していない時にあって、ミャンマーの国際社会受け入れに門戸を開く道筋を外務官僚といっしょにつけたという思いがあります。
又、在職中には陽の目を見ることができませんでしたが、キューバとアメリカとの国交回復があります。日本は第三国の立場ではありましたが、わが国と良好な関係にある中南米地域の発展にキューバは不可欠と思っていた私は、アメリカとの国交の回復を実現すれば、日本にとっても経済的メリットは大きい筈と踏み、一部の省内の反対を押し切ってキューバを訪問しました。私の訪問がいか程の影響を与えたかは、計測不可能ですが、米国務省内の担当者に大国であり、友好国である日本の動きがきっと好ましい刺激を与える、という思いを持っての訪問でした。
ペレストロイカによりソ連が崩壊する直前、アメリカが手を打ってきた数々の軍事的、外交的攻勢により白旗を上げたということは、ゴルバチョフをはじめ旧ソ連の政府高官は公には認めることはありません。しかし客観的事実として、後世歴史的真実として、それが検証されることになるのかもしれません。アメリカにとっても種を撒き、仕掛け続けることで、一日も早く冷戦を勝利のうちに終結させたいという思いを持ち続けることが大切だったろうと私は思います。
未来の扉を開くために“川越市政改革”に尽力。
誰に認められずとも、思い続け、仕掛け続けることが、洋の東西を問わず時代を超え、将来を見据えた政治家の責務であり、求められる資質だと私は信じます。
自分の半生を省みて今、改めて“川越”を熱く見る自身のこの思いは、何なのだろうか。長い政治経験で積み上げてきた全ての感性、知識、情報、人脈、人間力は未来の扉を開く“川越市政改革”に収れんされるわが宿命だったように思うのは牽強付会に過ぎるだろうか。