■地方議員選挙の時

  自分自身の選挙はこれで7度戦ったことになる。
川越市議会選挙を4度、埼玉県議会選挙を2度、そして今度の参議院選挙である。
 松野頼三元衆議院議員(元自民党総務会長/民主党衆議院熊本1区の松野頼久議員の父)が、ある問題で証人喚問に立っていた時、「政治家というのは最初の選挙の時の得票等は覚えているが、それ以後の選挙の記憶は薄いものだ」と語っていたのが強く印象に残っている。
私も、川越市議会選挙に初挑戦をした時の2,034票32位という数字は忘れないが、その後の得票数は全く憶えていない。
いつも厳しい思いで選挙に挑んできたが、市議会選挙2度目の時だけは自信もあり結果を楽しみにしていた。
 初挑戦の時に比べ、4年間しっかり活動をしてきたという思いと、選挙戦に入り反応が顕著(けんちょ/いちじるしいさま)だったからだ。
 果たして、3,000票近い得票で上位当選だった。
 しかし、それからは私自身が仕掛けたことでもあったが、わが陣営から複数の立候補となるなど不安を抱えながらの選挙ばかりだった。
議員職以外の仕事を持たない者にとっては地方議員というものは比較的、時間に余裕を持てるものだが、私の場合は党務(個人の議員活動とは関係ない党内の仕事)を担っていたり、仲間の選挙応援にいつも駆出されていたので時間は窮屈(きゅうくつ/自由を束縛されて気詰まりなさま)だった。
 そして、手伝う選挙は勝ったり負けたりで苦い思い出も少なくない。
 だから、「山根さんは1度も負け無しですね」とよく言われるが、晴れがましい思いで胸を張れるような気分にはない。
 勝利はいくつもの偶然の重なりと他人様のお陰以外の何物でもないからだ。
市議会選挙は2期目以降は、自分の努力で当選に必要な票数の半分位は得票できたが、県議会選挙や参議院選挙のスケールとなると自分の力をはるかに超えた所での戦いとなる。

■国政挑戦への決断
 20歳で職業としての政治家を目指す決意をしてから今日まで、ずっと国政を意識し続けてきた。
 31歳で市議会議員となった時も将来を自分なりに見据えていたので、議会内のあらゆる役職に執着はなかった。
 他の議員に躊躇(ちゅうちょ/ためらうこと)せず、何でも譲れた。
 自分が国会議員への第2のステップとして県議会議員に挑戦する時、仲間の市議会議員の人達には応援はもらえないまでも、足を引張られなければ、それで良い、そんな思いでいた。
 選挙勝利の要諦(ようてい/物事の肝心なところ)は、いくつかあると思うが私の経験則として敢えて言わせてもらえば不可欠なのは、挑戦する機会と判断した時、何が何でも「今」だと心の底から思えるまでに、熱い思いが湧きあがっていなくてはならない、ということだ。
 そんな時、きっと周辺の環境も整ってくるに違いない。
 民主党本部が衆議院議員選挙で、私の地元埼玉7区で候補者を模索し始めた頃、私は支援組織に自分の思いを打ちあけ挙手した。
 組織としては突然のことであり面食らうような話だったに違いない。
 しかし、勝つ為に越えなくてはならないハードルを組織自らがいくつか設け次々とクリアしてくれたが、最後のハードルを越すことができず、出馬(立候補すること)を私自身、断念させて頂いた。
 私としては支援組織が真剣に時間をかけ前向きに検討して頂けたことだけで満足だった。有難いという思いでいっぱいだった。
 衆議院議員へ挑戦する思いを抱いていた時、ずっと心に重くのしかかっていたのは、現職中野清代議士(自民党)の事だった。
 私が衆議院議員選挙に出たいという思いは、中野氏と争いたいという思いでは決してなかった。
 同氏が県議会議員から川越市長選挙に挑んだ時は、私は先頭に立って応援をさせて頂いた。
 そして、私の最初の県議会選挙では中野氏から逆に応援を頂いた。
 更に同氏の最初の衆議院選挙、続く私の2期目の県議会選挙でも2人でお互いにお互いを支援してきた。お互いの力量や個性は知悉している。
2人が激突すれば板挟みになる人も多く、いずれの結果でも後味の悪さが残ったことだろう。
 現中野代議士と舟橋現市長が市長選挙を戦った時の事が種々思い出されるが、保守なら保守で支援者がラップしている時の争いは凄惨を極めることが多い。今でもその時の傷跡は残っている。
 私が衆議院議員選挙を忌避したことは幸いだったと今でも思う。
■参議院選挙への挑戦

  当選の確立は25%と覚悟しての参議院選挙であった。
 望んでいた衆議院から土俵を移し参議院への挑戦の過程は複雑だったが、先輩の勧めによるものだった。
 戸惑い、躊躇もあったが「今」なのだなと燃える思いが澎湃(ほうはい/物事が勢いよく起こるさま)として湧き上ってくる自らの心を見定めて挑戦を決意したが、先ず党内において候補予定者に成り得るか否か、判らなかった。
 私と民主党埼玉県連合会の骨格を作り上げてきたもう一人の仲間が挙手していたからだ。
 私が指名される確立は5割と踏んでいた。そして本選挙で勝てるか否かも5割だろうと予測していた。
 私のこの予測は全く的中した。
 党内候補者選びは結局、投票となり僅差で私が決まり、本選挙でも80%を越す開票率で漸く最下位当選という結果だった。
 市会議員選挙、県会議員選挙と新たな舞台に挑戦する毎に誤解、曲解、誹謗、中傷、嫉妬、皮肉、嫌味、讒訴にさらされるものだが、今回の国政への挑戦に対するそれも例外ではなかった。
 しかし、こうしたことは多かれ少なかれ候補者の誰でもが受けなければならない試練であろう。
 だからこそ、謙虚にもなれるし、政治家としての器もつくられていくのだと思う。
 そして、顔も。
 選挙後、初めての臨時国会で常任委員会(総務委員会)が開かれ、開会の5分程前に着席し配られた資料に眼を通していたが、委員長がこちらの方を向きながら「あそこに坐っている人は誰?ちょっと恐そうな人だな」と言っているのが聞こえてきた。
 私は周りを見回したが誰もいない。これは自分の事なのだなと、苦笑しながら名刺を持って委員長(自民党溝手議員)に新人としての挨拶に行った。
自分では思いもよらないことだったが、他人眼に恐いと映る自分の顔には愕然とした。
 しかし、この顔も53年の歳月をかけて築き上げてきたのだから誇らしくも思う。
これから新たな顔づくりが始まる。


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